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漱石山房

夏目漱石が晩年の9年間を暮した「漱石山房」があった敷地に、新宿区立漱石山房記念館が建築中です。先日、覆いが取れました。なんだか、立派ですね~。

IMG_2742.jpg


展示のほかに、カフェやミュージアムショップなども入るようです(http://soseki-museum.jp/modules/info/)。9月24日オープン予定とのこと。こちらにいらしたときには、ぜひムクノキも見に来てやってください(^-^)/
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エノキとこの地域、昔のこと

この地域に長いこと住むWさんが、大エノキのことや、地域のことを思い出して文章を寄せてくれました。ご紹介します♪

羽ペン


 戦前、このエノキの前は「確かサイカチの樹だったと思う、木の下でキャッチボールをして遊んだ」という夫の話です。「つるがのびて実がなっていた」とも(サイカチはマメ科の落葉高木)。
 私もここに住んで50数年になりますが、当時は団地(大エノキの向かいにある都営住宅)の前にはケヤキ、シイの並木があり、このエノキのことはあまり気になっていませんでした。ケヤキ、シイの樹は、若木のころは子供たちが木登りなどして遊びました。やがて大きくなってきてからは腐葉土にしたいからと、近隣のおじさんたちがリヤカー自転車で取りに来ていました。
 落ち葉かきはみんなで(うちの娘も)やりました。団地の方々がお世話してくださり、たき火、焼き芋大会と子供たちも楽しみでいっぱいでした。

 この地には昔、川があったといいます。大エノキの前にある家の石垣からは、かつては清水が出ていました。昔は、その石垣に沿って冷たい水がもっと出ていたと姑が話していたこともありました。この地域に水脈があると実感したのは、昭和45から50年ころだったと思います。大雨が降ると、山吹町、鶴巻町は水があふれ、外苑東通りは通行止めになりました。
 その後、神田川の治水工事が始まり、道路が舗装され、ビルが建っていった頃、市ヶ谷柳町にある宗円寺の池の水がすっかり引いて干上がってしまいました。「神田川の水域はこんなところまでのびているのかしら」とお寺の奥様が話していたのを覚えています。その後、干上がった池は埋め立ててしまいました。以前は、緑雲寺の前には川が流れていて、言い伝えでは、夜ごと小豆を洗っていたおばあさんの話もあるくらいです。

湧水


 また団地の立て替えの時は、水があふれて大変だったようです。その地上に育つ大エノキは地下水をいっぱい吸って、あれよあれよという間に大木になってきています。この先、周りがどんなに変わっていっても、枝をいっぱい張って緑いっぱいの、そして酸素をいっぱい与えてくれるこの木が永遠であることを願っています。

大エノキの育つあたり~漱石 「硝子戸の中」から

夏目漱石の「硝子戸の中」 二十三に、「根来」という地名が出てきます。おそらく大エノキの育つ、弁天町アパートのあたりのことを書いているのだと思います。漱石にとっても”昔”の風景として、茶畠と竹藪が出てきます。明治初期あたりの風景でしょうか。

お茶は、朝霧でおいしくなるといわれ、霧を生む水辺の盆地が良い産地になります。そして竹藪は河川敷によく生えていて、水害にも強い植物です。昔の、のどかな水辺の弁天町の風景が浮かびます。


早稲田に移ってから、私は又その門前を通って見た。表から覗くと、何だか故と変らないような気もしたが、門には思いも寄らない下宿屋の看板が懸っていた。私は昔の早稲田田圃が見たかった。然し其所はもう町になっていた。私は根来の茶畠と竹藪を一目眺めたかった。然しその痕跡は何処にも発見する事が出来なかった。多分この辺だろうと推測した私の見当は、当っているのか、外れているのか、それさえ不明であった。…

(Norih)

地域の変化~戦後の航空写真から

国土地理院のHPからは、いろいろな時代の地域の地図や航空写真が手に入ります。(http://mapps.gsi.go.jp)

航空写真は戦前からあるのですが、やはり古いものは解像度がよくないですね。戦後に米軍が撮ったものが、比較的解像度が良いでしょうか。

スライド1

上の写真は戦後直後に米軍が撮影した昭和22年の写真です。左上が早稲田小学校の校舎です。早稲田小学校も、空襲で焼けました。ただ建物がコンクリートで堅牢だったので、その骨格を残して現在の校舎になっています。2年経ってもまだ一面空き地ですね・・・。でも、柳町の交差点の周りは家が結構残っています。

土地の地形もはっきりわかります。台地の辺縁の崖がはっきり見えます。現在の弁天町アパートのあたり(赤い四角のあたり)は神田川に向かって細長い低平地を成していて、川が流れていた様子(青い線)がよくわかります。大エノキは、お年寄りの記憶では、戦前から育っていたそうなのですが、ちょっとよくわからないですね。黄色い矢印の先のあたりにあるはずなんですが。拡大してみてみると、ちょっともじゃっとした感じなので、何か木は生えてはいそうなのですが、やはり画質に限界が・・・。

ふたつ目の写真は昭和38年です。すっかり、都会の密集した家並みです。川は暗渠になっています。この時期になると、エノキの姿もはっきり見えます。今よりは小さいですね。それから、地域には、大木が結構残っていたことがわかります。
スライド2


これが、3枚目、現在(2009年写真)になると、ほかの大木は全て切り倒され、大エノキだけが一本かろうじて残っていることがわかりますね。大エノキの貴重さ、大切さを改めて感じます。

スライド3

(KY)

根来百人組

大エノキがあるあたりは、江戸時代は、鉄砲衆の根来百人組同心組屋敷がありました。秀吉によって討伐された紀伊の根来寺の僧兵・根来衆に由来する人たちで、根来寺が秀吉によって討伐された後、家康が登用し、鉄砲百人組の一つとして組織したそうです。プライドの高い集団で、頭は総髪(髷を結わない)で、名前の他に坊(〇〇坊とか〇〇院)を名乗っていました。30俵3人扶持のあまり位の高くない武士でしたが、家康からは旗本なみに裃で勤務することを許されたそうです。(ただ薄給だったので提灯張りの内職をしていたとのこと・・・)

根来百人組の他に、、二十五騎組、伊賀組、根来組、甲賀組(計四組)がありました。鉄砲同心が各組に百人ずつ配属されたので百人組なのですね。江戸城の大手三の門の警備(百人番所)を受け持ち、4組の鉄砲百人組が昼夜交替で詰めていました。また、将軍が寛永寺や増上寺に参拝する際は、山門前を警備しました。

百人組は通常の鉄砲組とは異なり高い火力を有した独立部隊であり、徳川家康は、江戸城が万一落ちた場合、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を経て甲斐の甲府城に逃れるという構想を立てていたそうです。頼りにされていたようですね!

この鉄砲百人組の組屋敷は、伊賀組は大久保、甲賀組は青山、根来組は市谷、二十五騎組は内藤新宿にありました。根来組はその後、市ヶ谷の屋敷(現防衛省の敷地内)が尾張藩の上屋敷となったために、1656年に弁天町のエノキのあるあたりに移ってきたのです。

ちなみに、根来衆がもともといた根来寺は、室町時代末期の最盛期には僧衆(僧兵)1万余の一大軍事集団を擁したということです。根来寺僧が種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺を持ち帰り、僧衆による鉄砲隊が作られていたそうです。・・・最先端の戦闘集団ですね・・・。
    
                         (『わたしたちの街』、Wikipediaから)

原町の方にも同じく根来百人組の屋敷跡があるのですが、そこは、細い入り組んだ路地でつくられており、道をよく知らないで入ってきてしまった車が行くことも戻ることもできず困っているのをときどき見かけます。信玄の甲府の街づくりのように、戦闘時に身を潜めることができるようにそのような作りになっているんだ、と以前聞いたことがあります。

ごく普通の街並みに感じても、歴史によって形作られているのですね~。
プロフィール

むくのき・えのき

Author:むくのき・えのき
都心 新宿区の街なかに残されたエノキ(ムクエノキ)の巨樹を何とか残したいと地域住民で立ち上げた会、「巨樹の弁天町エノキを愛する会」の活動ブログです。※現在署名は休止中です。仲間、募集中です!!関心ある方は、mukunoki.enoki@gmail.comまでご連絡ください♪

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