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根来百人組

大エノキがあるあたりは、江戸時代は、鉄砲衆の根来百人組同心組屋敷がありました。秀吉によって討伐された紀伊の根来寺の僧兵・根来衆に由来する人たちで、根来寺が秀吉によって討伐された後、家康が登用し、鉄砲百人組の一つとして組織したそうです。プライドの高い集団で、頭は総髪(髷を結わない)で、名前の他に坊(〇〇坊とか〇〇院)を名乗っていました。30俵3人扶持のあまり位の高くない武士でしたが、家康からは旗本なみに裃で勤務することを許されたそうです。(ただ薄給だったので提灯張りの内職をしていたとのこと・・・)

根来百人組の他に、、二十五騎組、伊賀組、根来組、甲賀組(計四組)がありました。鉄砲同心が各組に百人ずつ配属されたので百人組なのですね。江戸城の大手三の門の警備(百人番所)を受け持ち、4組の鉄砲百人組が昼夜交替で詰めていました。また、将軍が寛永寺や増上寺に参拝する際は、山門前を警備しました。

百人組は通常の鉄砲組とは異なり高い火力を有した独立部隊であり、徳川家康は、江戸城が万一落ちた場合、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を経て甲斐の甲府城に逃れるという構想を立てていたそうです。頼りにされていたようですね!

この鉄砲百人組の組屋敷は、伊賀組は大久保、甲賀組は青山、根来組は市谷、二十五騎組は内藤新宿にありました。根来組はその後、市ヶ谷の屋敷(現防衛省の敷地内)が尾張藩の上屋敷となったために、1656年に弁天町のエノキのあるあたりに移ってきたのです。

ちなみに、根来衆がもともといた根来寺は、室町時代末期の最盛期には僧衆(僧兵)1万余の一大軍事集団を擁したということです。根来寺僧が種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺を持ち帰り、僧衆による鉄砲隊が作られていたそうです。・・・最先端の戦闘集団ですね・・・。
    
                         (『わたしたちの街』、Wikipediaから)

原町の方にも同じく根来百人組の屋敷跡があるのですが、そこは、細い入り組んだ路地でつくられており、道をよく知らないで入ってきてしまった車が行くことも戻ることもできず困っているのをときどき見かけます。信玄の甲府の街づくりのように、戦闘時に身を潜めることができるようにそのような作りになっているんだ、と以前聞いたことがあります。

ごく普通の街並みに感じても、歴史によって形作られているのですね~。
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むくのき・えのき

Author:むくのき・えのき
都心 新宿区の街なかに残されたエノキ(ムクエノキ)の巨樹を何とか残したいと地域住民で立ち上げた会、「巨樹の弁天町エノキを愛する会」の活動ブログです。署名をお考えの方は、http://www5e.biglobe.ne.jp/~natsu86/からPDFファイルが手に入ります(印刷してお使いください)。弁天町のつぶつぶカフェさん(http://tubutubu-cafe.net/)でも署名ができます。仲間も募集中です!関心ある方は、mukunoki.enoki@gmail.comまでご連絡ください♪

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